LOGIN石の鳥居の向こうで、何かが砕ける音がした。 ガラスのような、氷のような。 しかし、目に見えるものは何も壊れていなかった。「……今の音、聞こえた?」 イズミが尋ねると、マキヒトが頷いた。「ああ。鳥居の奥だ」 くるみは胸元の護符を握りしめた。「何かが解けたみたい。ずっと張りつめていた力が、急に弱くなった」 タカオミは白い手帳を確認した。 最後に現れた文章は、まだ残っている。『最終稿の成立条件』『登場人物が、自らの記憶を疑わなくなること』「……この条件、奇妙ですね」「どうして?」「記憶を疑わなくなれば、最終稿が成立する。ですが、それでは記録が正しいことの証明にはなりません」 イズミは微笑んだ。「そうだね。信じることと、真実であることは違う」 彼女は鳥居を見上げた。「だから、私たちが疑い続けたことで、何かが壊れたのかもしれない」 そのとき、足元に一枚の紙が落ちてきた。 琴乃が拾い上げる。「……これは」 紙には、見覚えのある文章が並んでいた。『天野イズミは、白野タカオミの記録を受け入れた』『天野イズミは、過去の記憶を疑わなくなった』『天野イズミは、自らの物語を終わらせることを選んだ』 マキヒトが顔をしかめた。「全部、勝手に決められてるじゃねえか」「ええ」 琴乃は紙を裏返した。 そこには赤い文字で、こう記されていた。『最終稿・修正失敗』 イズミは目を細めた。「……これが、用意されていた結末?」「少なくとも、その候補の一つでしょう」 タカオミが答える。「ただし、最終稿と書かれているからといって、唯一の結末だったとは限りません」「うん。そこは忘れちゃいけないね」 イズミは紙を受け取った。 自分が過去を疑わなくなる。 誰かの記録を受け入れる。 そして、自ら物語を終わらせる。 すべてが、あまりにも都合よくつながっていた。「……ねえ、琴乃さん」「はい」「小説を書くとき、登場人物が予定と違うことをするって、ある?」 琴乃は少し驚いた顔をした。「あります。むしろ、よくあります」「そのとき、どうするの?」「展開を考え直します。最初の予定に戻すこともありますが……」 彼女は言葉を選んだ。「登場人物の気持ちを考えたら、別の結末のほうが自然だと思うこともあります」「そっか」 イズミは頷いた。
『天野イズミが探偵になる以前から、私は彼女を知っていた。』 白い手帳に記された一文を、タカオミは何度も読み返していた。「……ありえません」 彼の声は、かすかに震えていた。「僕がイズミさんと出会ったのは、探偵事務所に助手として採用された日です。それ以前に面識はありません」「でも、あなたの字なんだよね?」 イズミが尋ねる。「はい。筆跡だけでなく、文字の間隔や句読点の使い方まで一致しています」 マキヒトが白い手帳を覗き込んだ。「だったら、忘れてるだけじゃねえのか?」「その可能性もあります。しかし、記憶を失ったという証拠もありません」「相変わらず面倒くせえな」「事実と推測を混同したくないだけです」 いつものやり取りだった。 けれど、タカオミの表情は晴れなかった。 イズミは、そっと白い手帳を閉じた。「ねえ、タカオミ。これを調べる前に、一つ聞いていい?」「何でしょう」「あなたは、私と出会って後悔したことがある?」 思いがけない質問だった。 タカオミは目を瞬かせた。「……ありません」「本当に?」「ええ。危険な事件に巻き込まれることは多いですが」「そこは否定してほしかったな」 イズミが苦笑する。 タカオミも、ようやく小さく笑った。「それでも、後悔はしていません」「なら、よかった」 イズミは手帳を返した。「昔の記憶が本物でも偽物でも、今のあなたがそう思ってくれているなら、それで十分だよ」 タカオミは、しばらく手帳を見つめていた。 やがて、静かに頷いた。「……ありがとうございます」 そのとき、琴乃が声を上げた。「待ってください。この手帳、日付がありません」 全員が振り返る。 琴乃は白い手帳の最初のページを指さした。「『観察開始以前』とは書かれています。でも、具体的にいつの記録なのか分からないんです」 イズミの目が鋭くなった。「確かに。私が探偵になる前って、何年前のこと?」「少なくとも、この手帳だけでは特定できません」 タカオミが答える。 くるみは、白い手帳に手をかざした。「……少しだけ、変な感じがする」「霊的なもの?」「ううん。誰かの気配というより、同じ場所に違う時間が重なっているような……」 彼女は言葉を探した。「古い写真を、今撮った写真の上に重ねたみたい」 イズミは考え込んだ。 そ
「君が、そう選ぶまで待っているだけだよ」 石の鳥居の向こうから響いた声に、イズミは眉をひそめた。「それって、私があなたの望む答えを出すまで終わらないってこと?」「解釈は自由だ」「便利な言葉だね」 イズミは冷たく笑った。「自由だと言いながら、選択肢はあなたが用意する。私が断れば、何度でもやり直す。そんなの、自由とは呼ばないよ」 闇の中から返事はなかった。 マキヒトが一歩前へ出る。「姿を見せろ。人の人生を弄んでおいて、いつまで隠れてるつもりだ」「姿など、君たちにとって意味はない」「それを決めるのも、お前かよ」 マキヒトの声には、明らかな怒りがあった。 その隣で、タカオミは白い紙を見つめていた。『天野イズミは、すべてを知ったうえで、自らの物語を終わらせることを選んだ。』「……おかしいですね」「何が?」 イズミが尋ねる。「この文章には、重大な矛盾があります」 タカオミは眼鏡を押し上げた。「『すべてを知ったうえで』とあります。しかし、僕たちは観察者の正体も、最終稿の内容も知らされていません」「つまり?」「現時点では、成立しない記述です」 イズミは白い紙を見上げた。「そうだね。私が知らないことまで、知ったことにされてる」 空中に黒い文字が現れた。《最終稿の承認を要求》《承認後、必要な情報を開示します》「順番が逆でしょ」 イズミは即答した。「内容を知らずに承認なんてできない」《承認しなければ、物語は終了しません》「だったら、今は終わらせない」 その瞬間、白い紙が激しく震えた。《承認拒否》《再確認を実行》 文字が消え、同じ質問が浮かび上がる。《あなたは、自分の物語を終わらせますか?》《はい/いいえ》 イズミは、どちらにも触れなかった。「……また二択」 くるみが呟く。「何度も同じ質問をしているのに、答えを変えようとしないんだね」「違うよ」 イズミは首を振った。「向こうが欲しいのは、答えじゃない」「どういうこと?」「私が自分の意思で選んだ、という記録だよ」 琴乃が息を呑んだ。「……だから、強制したことにはできない」「そう。最後の一文を成立させるには、私が自分で承認したことにしなきゃいけないんだ」 タカオミが手帳を開く。「それなら、これまでの修正にも説明がつきます」 彼は過去の記録
黒い影が、琴乃の足首を這い上がった。「琴乃さん!」 イズミが駆け寄る。 しかし、伸ばした手は空を切った。 琴乃の身体が、半透明になっていた。「……どうして?」 琴乃は自分の指先を見つめた。 そこから、細かな光の粒がこぼれ落ちている。《修正対象――作者》《記述権限を回収します》 黒い文字が空中に浮かんだ。「ふざけんな!」 マキヒトが剣を振るう。 影は二つに裂けたが、すぐに元の形へ戻った。「物理攻撃じゃ駄目か!」「待って!」 タカオミが叫んだ。「これは琴乃さん自身を消そうとしているのではないかもしれません!」「どういうこと?」 イズミが振り返る。「表示されているのは『記述権限の回収』です。存在そのものの消去とは書かれていません」「でも、身体が消えかけてる!」「だからこそ、何が起きているのか確認する必要があります!」 くるみが琴乃の肩に触れた。 その瞬間、彼女の指先にも黒い文字が浮かんだ。「……見える」「何が?」「琴乃さんの身体じゃない。周りにある、文字のようなものが剥がされている」 琴乃は苦しそうに顔を上げた。「私が……書いた物語……」 足元に散らばった原稿が、一斉に宙へ浮かぶ。 ページの文字が消えていく。 その中に、イズミは見覚えのある文章を見つけた。『天野イズミは、石の鳥居へ向かった。』 最初の事件の一文だった。 ところが、その文章が書き換わる。『天野イズミは、石の鳥居へ向かうよう命じられた。』「……違う」 イズミは呟いた。「私は、自分で行くって決めた」《記録修正中》「勝手に変えないで!」 彼女は原稿を掴んだ。 紙は冷たかった。 まるで、人の手で書かれたものではないように。 そのとき、琴乃が叫んだ。「イズミさん! その原稿、裏を見て!」 イズミが紙を裏返す。 そこには、薄い灰色の文字が印刷されていた。『原案』『観察記録に基づき生成』『修正担当――天咲琴乃』 イズミは息を呑んだ。「……修正担当?」 琴乃は唇を震わせた。「私、ずっと作者だと思っていました」 彼女の目から涙が落ちた。「でも……もしかしたら、誰かが用意した物語を、知らないうちに書き直していただけなのかもしれません」 記述者の女性が、ゆっくりと頷いた。「私と同じです」 マキヒトが顔をしか
石の鳥居の下で、イズミは観察記録をもう一度開いた。 『最終確認――あなたは、自分の物語を終わらせますか?』 その問いは、まだ消えていなかった。 「……変だと思わない?」 イズミが尋ねると、マキヒトが顔を上げた。 「何がだ?」 「この観察記録、私たちの行動を調べるためのものなんだよね」 「ああ」 「だったら、どうして途中から命令するようになったんだろう」 タカオミが手帳を開いた。 「観察と介入は、必ずしも矛盾しません。ただし、介入によって結果が変わる可能性があります」 「そう。そこなの」 イズミは観察記録を指さした。 「自由に判断できるか調べたいのに、命令して従わせたら意味がないでしょ?」 琴乃が小さく頷いた。 「それでは、自由な判断を観察したことになりませんね」 「つまり、最初の目的と、今やっていることが食い違ってる」 くるみが考え込む。 「途中で目的が変わったのかな」 「あるいは……」 タカオミが言葉を継いだ。 「観察者とは別の誰かが、記録を利用している可能性があります」 その場が静まり返った。 マキヒトが眉をひそめる。 「神を名乗っていた奴と、最初の観察者は別人ってことか?」 「可能性の一つです。まだ断定はできません」 イズミは、ゆっくりと頷いた。 「でも、確かめる方法はあるかもしれない」 「どうするの?」 アカリが尋ねた。 「向こうが知らないことを、私たちだけで決めるの」 イズミはタカオミへ向き直った。 「観察記録を閉じて。手帳も今は使わないで」 「記録を残さないのですか?」 「うん。少しだけね」 タカオミは戸惑いながらも、手帳を閉じた。 イズミは仲間たちを見回した。 「これから私が何をするか、誰にも言わない。みんなも予想しないで」 「無茶苦茶だな」 マキヒトが苦笑した。 「探偵の勘ってやつ」 イズミは鳥居へ歩いていった。 そして、観察記録を石段の上に置いた。 何かが起こるのを待つ。 一分。 二分。 何も変わらない。 「……イズミ?」 くるみが呼びかけた。 「もう少し」 イズミは冊子に手を伸ばした。 けれど、開かなかった。 代わりに、鳥居の脇に咲いていた小
池の水面に、黒い文字が浮かんでいた。《返還対象――白狐の名前》 イズミは、その一行を睨んだ。「ねえ、タカオミ。ひとつ確認していい?」「何でしょう」「この本、最初から同じことを言ってた?」 タカオミは手帳を開いた。「いいえ」 迷いのない返答だった。「第41話に相当する記録では、第三の約束を破棄するよう命じています。しかし、先ほどは履行を要求しました」「つまり?」「同じ約束に対して、正反対の命令を出しています」 マキヒトが眉をひそめた。「気まぐれってことか?」「それだけでは説明できません」 タカオミは眼鏡を押し上げた。「重要なのは、命令が変わった時期です」 彼は記録を指でなぞった。「僕たちが約束の内容を知らなかったときは、破棄を要求した。内容を知った途端、履行を要求した」「……なるほど」 イズミは水面を見た。「私たちの知っていることに合わせて、命令を変えてるんだ」 水面の人影が、わずかに揺れた。「ずいぶん疑い深いね」「探偵だから」 イズミは笑わなかった。「あなた、本当に白狐の名前を返してほしいの?」「もちろん」「じゃあ、どうして最初は約束を消そうとしたの?」 沈黙。 くるみが少女を抱き寄せた。「答えられないんだね」 人影は何も言わなかった。 そのとき、琴乃が絵本を開いた。「待ってください」 彼女の声が震えていた。「このページ……さっきと違います」 全員が振り返る。 絵本には、少女が白狐へ鈴を結ぶ場面が描かれていた。 けれど、その隣に新しい文章が加わっている。『少女は、白狐から名前を奪った。』「こんな文章、なかったよね?」 アカリが尋ねた。「はい。先ほど確認したときにはありませんでした」 琴乃は顔を上げた。「私も書いていません」 タカオミが急いで手帳をめくった。「……記録にもありません」 マキヒトが剣を抜く。「誰かが今、書き足したってことか」「そういうこと」 イズミは黒い本を見上げた。「やっと尻尾を出したね」《記録の補完を実行しました》 空中に文字が現れた。「補完?」《欠損した情報を修復しました》「違うでしょ」 イズミは絵本を指さした。「それは修復じゃない。あなたに都合のいい説明を追加しただけ」《記録内容は正確です》「誰が確認したの?」 文字が止